親のかかわり

 朝の登校時間に、興味深いシーンを見ました。

私が玄関に行くと、

「校長先生、おはようございます! 

 これ! トノサマバッタです!」

と見せにきた子がいました。

『ほぉ! 立派なトノサマバッタだ。』

 

 その子は、

「逃がしてあげるんだ。」

と、玄関前の草原に駆け出しました。

そして、虫かごのふたを開け、

「出てけぇ!」とバッタが出ていくのを待っています。

でも、小さなふたから出ていく様子はありません。

 

そこで、

「そうだ! 草をあげたら食いついて出ていくかも?」

と考え、草をふたの近くで揺らしています。

 

バッタが出ていく素振りはありません。

 

次に、

「そうだ! ふたを全部とってしまおう!」

と考え、むしかごのふたをとろうとしました。

でも、かごからふたはなかなか外れません。

 

そこで、

近くにいたその子の母親に近付いて、

「これ…。」

と言いました。

でも、その母は、すぐにこう言いました。

「自分でやってごらん。」

と、にっこり笑っています。

 

その子は、母親は助けてくれないと判断し、

自分で挑戦しました。

少し時間が掛かりました。

でも、

 

「開いた!!!」

自分でふたを外すことに成功しました。

(やったぞ! ぼくは自分でやったぞ!)

という心の声が表情に表れています。

 

ふたが外れた虫かごを、そっと地面に置きました。

 

それでも、バッタは逃げません。

 

さて、どうするか…?

その子は、かごを手に取り、勢いよく走り出しました。

「にげろぉおおお!」

 

すると、中のバッタはびっくりして飛んでいきました。

『やった、逃げたぞ!飛(跳)んでるぞ!』

と興奮して私が叫びましたが、

その子は、バッタを見失っているようで、

全く逆の方向に手を振って、

「ばいばぁ~い!」

と青空に向かってにっこりしていました。

 

 多分、立派なトノサマバッタを誰かに見せたかったのでしょう。

立派なだけに、怖くて触ることができないけど、

何とか逃がしたかったのでしょう。

 その時、大人が代わりにバッタを逃がすこともできましたが、

私は、この子の興味や力を見守ることの方が大事だと感じました。

怖がっている子の代わりに、かごを預かり、

代わりにバッタを逃がした方が早いですが、

でも、この子の知恵や喜びを奪ってしまうことにもなります。

 

ふたを外してあげることもできましたが、

母親が、

(できるよ。がんばってやってごらん。)

と見守る姿に、同じ気持ちであることに嬉しく思いました。

子への期待、不安、親のかかわり方が、私の思いと一致していたのです。

 

 時々思い出すことがあります。

私が過去に勤務していた学校では、

子供が親を使い走りにして、

「やってもらって当たり前だ」と勘違いしているのか?

と思わせる場面を何度も目にしたことがあります。

 

例えば、

参観日に保護者が来ているときに、

帰りの会が終わり、一緒に帰ろうと子供が親の前に近寄りました。

すると、自分のカバンをポンと親に投げ、

「持ってって。」

と言うのです。

結構な頻度で目にしました。

こういう、親の存在を(蔑)さげすんだ子供を

そのままにしていいことはありません。

「なぁ、〇〇さん。親にそんな態度はだめだ。

 自分で持って帰りなさい。」

と、大勢の前で告げたこともあります。

 

玄関を親が開けるまで、自分で出ていこうとしない子…。

雨が降ったら傘を親が届けることが当たり前だと思い、

傘を持ってきた親に向かって、

「遅い!!!」と文句を言う子…。

 

親子のかかわり方に正解はないと言われるけれど、

やっぱり、「子が親より偉いんだと思わせる行動」に対して、

そして自立に向けた本質の、

「自分のことは自分でやる」

「困ったら、自分で助けを求める」

という諭しは、親の大事な役目だと私は思います。

 

…そうは言うけど…、親の悩みは尽きぬものです。