どんなときも思考・判断・表現力

私は

「人はどんな時に考えるか?」

と思うことがあります。

何となく考えている状態ではなく、何か目的を達成するために考えている状態に

人はいつなるか?

ということです。

 

そういう視点で子供たちの活動を観察していると、

「おっ! 今、考えてるな。」

とか、先生たちの立ち振る舞いを見て、

「いい投げ掛け(しかけ)だ。」

と感じることがあります。

先日、休み時間に体力づくり運動をしていました。

廊下に障害物を置いて「けんぱ」をするチームがありました。

このチームは、その障害をどのように設置するかを考えていました。

この時点で、体育の「思考・判断・表現力」である、

「場の設定」を「自分たちで考える」活動をしていました。

教師が場を作るのではなく、子供たちが目的に応じて

場を設定するということです。

 

次に、なぎさ学級で頭をくっつけて何やら相談しています。

算数の「垂直・平行」について、概念を学習した後、

身の回りにある垂直・平行について調べていました。

その中の一人に私は腕を差し出して、

「この腕に平行な腕にして。」

というと、すかさず自分の腕を平行な位置に置いていました。

「じゃぁ、垂直にして。」

というと、くっつけてきました。

「離れてても、垂直って言えるのかねぇ…。」

というしかけをすれば、子供たちは、がぜん思考するはずです。

 

子供たちはいつも「何となく」考えています。

でも、学校はそうではなく考えさせる場を「意図的に」作り出す必要があります。

 

私はいつも子供たちに虫取りに誘われます。

「校長先生! 虫取りにでもいきませんか?」

『いいねぇ!!』

 

その時に、いつも思うことがあります。

「虫網が玄関にあれば楽なのに…。」

 

いつも理科室のテレビの裏に取りに行かなくてはなりません。

もし、この発想が子供たちから出てくれば、普段私たちがこだわっている、

「気付く子」の成果の一つとして、見取ることができるのだと思います。

ただし、黙っていて「気付く子」になることはなく、私達は

「気付かせる師」になる視点をもたなければなりません。

 

人はいかに楽(効率的)に食料を手に入れるか?

という発想で道具を作り、環境を学び

考えて進化してきた生き物です。

 

そう考えると、

学校は、教科や生活指導を通して、

「自分の生き方に生かす学習を積み重ねる場所」

としての役割があるのだと感じています。