学校からのお知らせ

素敵な旅立ち(巣立つ卒業生)

本日、第77回卒業証書授与式を挙行いたしました。

玄関には、卒業を祝う職員からの言葉や、在校生の言葉、関係各位からのお祝いの言葉が並んでいます。

 

 

 

私は、卒業式の前に、「修了式」であいさつしました。

 

「皆さんは『けじめ』ということばを知っていますか?

 簡単にいうと、『遊ぶときは遊ぶ』『勉強するときはする』と言ったこと。

 このけじめと「挨拶」をつなげて考えると、挨拶というのは、違う見方ができると思います。

 

 毎朝、校長先生は玄関でみんなと挨拶をしました。

 『おはようございます。』

 この言葉は、校長先生とつながる言葉です。

 でも、みんなにとって、「けじめ」をつける言葉でもありませんか?

 学校に来て、「おはようございます。」と挨拶をするのは、それまでいた自分の家から学校での生活に変わるというけじめ。

 学校で、「さようなら。」と挨拶するのは、学校を出て、これから違う場で生活するというけじめ。

 そういう見方をすると、挨拶は自分のためでもあるってことです。

 けじめをしっかりとつけることができるようになったか、卒業式の皆さんをみていますよ。」

 

 卒業式で、かっこいい姿の在校生を見たくて、

 伏線をはりました。

 

 式が始まり、卒業生も在校生も立派でした。

 

離任式では、異動、退職する先生へ児童代表がお別れの言葉を贈りました。

子供たちにとって、思い出の多い先生たち。

児童代表が言葉につまり、静寂が続きます。

「…ありがとう、ございました。」

涙を流して、別れを惜しむ子もいます。

 

卒業式が終わり、最後の学級活動。

担任へ花束を贈ったり、教室で記念撮影をしているご家族。

たくさんの思考を整理してきた黒板。

端末が導入されたとしても、黒板をいかに使うか、永遠の指導ツールに間違いないと思います。

 

「おめでとぉ!!」

「元気でねぇ!!!」

祝福を受ける卒業生の表情は、すがすがしく美しくも感じました。

 

今日を迎えるまで、これまでの学習の成果を形にしてきました。

卒業式練習では、自分たちの姿を見て、改善点を確認してポイントをしぼって練習しました。

 

 

 

3名の卒業と、24名の在校生の修了を目の当たりにして、

何か、ほっとした気分です。

 

「卒業を喜び、明日からは来年度のことを考える。

 切り替えを求められる教員の宿命ですが、みなさん、お疲れさまでした。

 今日は、ドラマを観ている感じで、どの場面も素敵でした。」

そういって、職員の頑張りをねぎらいました。

 

保護者の皆様、1年間、ありがとうございました。

来年度も、パワーアップした渚滑小学校で進みます。 

 

ゆくりば

今朝、子供たちが登校して教室に向かう途中、

「ゆくりば」が目に留まりました。

「おっ! 名前、決まったんだ。」

「ゆくりば?」

『ゆくりばの言葉から連想するものは?』

と尋ねると、

「ゆっくりする場?」

と想像する子。

沖縄の方言だそうで、子の想像通り、「ゆっくりできる場所」という意味があるそう。

 

ここ数日で、「ゆくりば」が変わっています。

1、2年生のおすすめ本が置いてあったり、

今後、この場の使い方を考えたり…。

何かが変わると、思考が変わり、

思考が変わると行動が変わります。

3月の臨時休業

本日、渚滑中学校長と相談の上、両校臨時休業の対応をとりました。

下校時の暴風雪が予想され、子供たちはもちろん、送迎する保護者、職員の安全確保のためです。

昼過ぎ、下校予定時刻あたりに外を見るとホワイトアウトの状態でした。

早朝から公務補が除雪作業を進めてくれていました。

「吹きだまってます。」

とのこと。

 

急な臨時休業の対応に、ご理解ありがとうございます。

道東を中心に、猛吹雪の地域もあります。

もうしばらく暴風雪の予報です。

事故のないことを願っております。

渚滑中学校の卒業式に参列して

本日、渚滑中学校の卒業式でした。

在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞を聞き、

その時の情景が目に浮かぶ内容でした。

楽しいことだけでなく、人間関係や自分の生き方に悩んだけれど、

支えてくれた仲間や先生に感謝したいという

メッセージを受け取りました。

 

保護者の方々に目を向けると、我が子と対峙し、支えてきた中で生まれる喜びや苦しみ、

親としての葛藤があったことを察しました。

 

卒業生10名に寄り添い、支えてきた職員の方々にも敬意を感じます。

 

明日から、自分たちの選んだ道を進んでいく

10名の背中を見送ったとき、

「生きろ」

という思いが脳裏にやどりました。

 

ご卒業おめでとうございます。

雪解け時期に思い出すこと

流氷が姿を消し、プラスの気温となってきて学校の周りの雪解けも一気に進みました。

歩いて登校する子に、

「道の雪は解けてるかい?」

と尋ねると、

「結構アスファルトが出てきてます。」

と答えてくれます。

 

学校の玄関先にあった、低学年が2月20日に作った雪だるまも…、

この通り。

消えていく運命です。

校舎周りの様子も様変わりし、あちこちに水たまりができています。

私事ですが、この時期の水たまりを見るといつも思い出すことがあります。

 

私の息子が幼き頃のこと。

春先の時期ではなかったのですが、少し暖かくなってからのことです。

 

仕事から帰宅した私に、妻が数枚の写真を見せてくれました。

その写真は、息子とその友人が道のくぼみに溜まった水たまりで遊んでいる場面でした。

最初は加減して遊んでいたのに、そのうち羽目をはずして

ズボンも服もべちゃべちゃどろどろになっています。

べちゃべちゃで真っ黒なのに、裸足になってにっこり笑っているのです。

【イラストフリー】

道端の水たまりですから、不衛生を指摘されれば否定できませんが、

私はその写真を見て嬉しく思いました。

 

幼いからこそ味わうことを経験していたからです。

無理にやらせるのも弊害がありますが、

子供たちのその様子を見守っている妻とママ友が、我が子の身近にいてくれることに、

心強さを感じたのも事実です。

洗濯をするのも大変になりますが、それよりも

「泥だらけになる価値」を選んでくれたことに敬意を感じます。

 

この話を参観日の学級懇談会で話したとき、

賛同してくれる方と、

「そうは言うけど、後始末はやっかいですよ。」

という方と、保護者の方々の価値観、子育て観を語った20年前の思い出があります。

 

子を育てる環境は変わってきています。

もし、我が子が泥だらけで帰ってきたら、皆さんは何と声を掛けるでしょうか。

落ち着く場所

渚滑小学校の建物は古いです。

確かに、冬も寒いですが、子供たちも先生たちも、大切に使っています。

先日、職員室前に「フリースペースを作りたい。」と、

職員が提案しました。

 

というのも、これまで廊下に展示されていた物や、数多くの書類を整理することで、スペースが生まれたのです。

教頭や公務補、事務職員が常に周りを見渡し、「こうしたい、ああしたらいい。」

と校舎内に目を見張らせて作戦を練っているのです。

 

職員室内や、書庫、放送室を整理すると、そこを使う人たちの動線が見えてきます。

動きやすいのは使いやすい場につながります。

 

そして、その場が落ち着く場となれば、自然と人が集まるものです。

常にアップデートを考える学校でいたいものです。

人を理解するということ(ゲストティーチャー来校)

 先日、ゲストティーチャーがいらっしゃいました。

「小川 夏妃」さんです。

生誕したときから目が見ない状態だったらしく、現在は、就労支援施設で働いていらっしゃいます。

 

以前、高学年の児童が、この施設を見学しました。

施設を見学するだけでなく、実際に作業してみました。

割り箸を袋に一膳ずつ入れていく仕事です。

その時、一緒に作業してくれたのが小川さんでした。

目をつぶって作業したり、小川さんと話をしたりしながら時間を過ごしました。

「結構難しい…。」

とつぶやいていた子供たち。

 

今回は、学校に来ていただいて、まず、給食を一緒にとりました。

配膳をするときに、ヘルプをした子が、

「緊張した…、どうしたらいいのか分からなかった…。」

とつぶやきました。

 

私たちは、視覚から情報を得て判断したり、

視覚から得た情報が、感情につながることが当たり前となっています。

当たり前の配膳が、当たり前でないと分かった時、ヘルプをした子のつぶやきも納得できます。

 

給食後、小川さんを囲んで学習しました。

「見えないけど、他の感覚は研ぎ澄まされていると思います。」

という言葉を聞き、担任は、紙風船を用意しました。

風船の中に鈴が入っています。

紙風船を使って、みんなでバレーパスをすることにしました。

でも、紙風船ではなかなかうまくいきません。

鈴がなかなか鳴らないのです。そして、すぐに地面に落ちてきます。

その場にいた大人も子供も、どうしたら続くかなぁ…。と考えました。

 

「普通の風船なら、ゆっくり落ちてくるんじゃない?」

ということで、風船を用意し、鈴を入れてパスしてみました。

でも、うまくいきません。

音が鳴らないのです。

小川さんにとって、音が全てです。

視覚ではなく、聴覚から情報を得ている人について理解を深めます。

 

「どうしたらいい…?」

「小川さんにパスをするときに、名前を呼んだら?」

「よし、やってみよう!」

 

でも、うまくいきません。

「う~ん…。」

この時の子供たちは、小川さんの立場になっているのです。

これが大事。

 

次のゲームに移りました。

伝言ゲームです。

背中にひらがなを書いて、次の人の背中に伝言していくものです。

一列になって、始めることにしました。

でも、その時です。

施設の方が、こう言いました。

「あっ! これ、小川さん、できないんじゃない?」

と言うのです。

この気付きをした施設の方は、さすがだと思います。

 

そこにいた全員が、

「どうして? なぜ、できないの?」

といった感じ。

 

なぜ、この簡単なルールの伝言ゲームはできないか、お気付きでしょうか?

子供たちに気付かせたい視点でした。

 

なぜなら、小川さんは、「点字」で文字を認識しているので、私たちが認識する、日本語の形を理解していないのです。

ですから、小川さんの背中に、私たちが知っているひらがなを書いたとしても、何の文字なのか分からないということです。

文語(書き言葉)認識の違いです。

 

そこで、順番を変えることにしました。

小川さんが一番先で、問題を出す役割です。

 

 

私は、この学習を通じて感じたことがあります。

 

福祉ってなんだろう?

障がいを理解するってなんだろう?

当たり前ってなんだろう?

人を理解するってなんだろう?

ということ。

 

今回、交流したゲームをみても、全盲の人にはできることと、できないことがある。

私たちにだって「できること」と「できないこと」がある。

同じだ。

でも、全てが同じかというとそうでもない。

そう考えると、人間が生きていく本質が見えてくる気がします。

「人は補い合いながら生きていく」

ということ。

 

五感に不自由がある人を特別視する必要もなく、何でもかんでも手を差し伸べる必要はない。

その人を理解して何をお手伝いするか?

 

だから、目が見えない人はボール運動ができないという、一方向からの決め付け先入思考ではなく、

できるボールゲームだってある。音がなるボールを使えばできる!

という発想で生まれたスポーツもたくさんあります。

 

 

昨日のブログ同様、「人によって価値は違う。人によって補うことも、補い方も違う。」

どんな人だとしても、その人を理解する必要がある。

今回の学習意義は、福祉を通じた、「人間理解」なわけです。

 

このブログをみなさんに紹介できても、このままでは小川さんに伝えられない…。

どうしようか…。

そう考えることも、「人を理解するスタート」なのかもしれません。

 

今回の学習を進めるにあたり、ねこやなぎの小堀さん、社会教育の高橋さん、そして、自分の人生を教えてくれた小川さん、ありがとうございました。

今後もよろしくお願いします。

みんなで感謝(六送会)

「みんなで最高の時間にしましょう。」

在校生代表の言葉からスタートした「六年生を送る会」

とても素敵な会になりました。

 

1,2年生は、全校児童でドッチボールをします。

その説明、お礼の言葉など4月と比較すると、自分たちで動くことができる様子が見られました。

整列や、説明のタイミングなど、担任の手を借りずに進めていました。

中学年の声がいい。

説明するときの声。その時の眼が生き生きとしています。

だから、聞く人を引き込むことができるのです。

5年生は、「6年生の思い出のシーン」を、写真で振り返りました。

保護者の方々も参観しています。

渚滑小学校は、こういうところがいい。

保護者も気兼ねなく、学校にやってきます。

6年生は、数年前の自分の写真を見て、何かを感じているようです。

手作りのくす玉を割ると、「わぁああ!」と歓喜がわきました。

6年生は、お礼として「しっぽ取り」を企画しました。

自分たちがしっぽを取られないように逃げる役です。

 

私は最後に、挨拶しました。

「六年生のみなさん、あなたたちの人生はバラ色で明るいですか?

 校長先生は、そうは思わない。

 だって、これから思い通りに事が進まないことが増えたり、やりたくないことがたくさん出てきたり、

 人に嘘をつかれることだってある。

 

 でもね、その先を明るくすることだってできる。

 何か行動を起こすこと。

 先を明るくする努力をしてほしい。

 困ったとき、仲間を頼ればいい。

 信頼できる大人に相談すればいい。

 

 そうやって生きてほしい。」

 

私は、こういう挨拶をするときに原稿を作らないで話すことが多いのですが、

今回の「六送会」に参加して、そんな言葉が頭に浮かんできました。

強くやさしく生きておくれ…。

未来を明るくするチャンスは誰にでもある。

その方法をつかんで生きてほしい。

その素地を身に付けるお手伝いを、先生たちはしてきたよ。

そんな思いからでしょうか。

 

職員室に帰る途中、ある女の子と話しました。

「どうだった?」

『楽しかったし、6年生すごいなと思った。』

「ん? 何がすごいと思ったの?」

『しっぽ取りの時、6年生、手加減してくれてた。

 あまりにも取れなかったら面白くないし、低学年のときだけ、

 様子見てくれたから。』

「そういう気付きができるあなたもすごいよ。」

 

 

笑顔いっぱいの素敵な送る会になったのでした。

学校の価値とは

しばらくの間、このブログをアップせずにいたところ、数名の方から、

「校長先生に何かあったのでは…?」

「学校で何かが??」

という憶測を呼んでしまったようです。

私はいたって元気でございます。

子供たちも、職員も元気でございます。

 

久しぶりのつぶやきではございますが、文章のみのお話です。ご了承ください。

 

テレビを観ていました。

海外のテレビ局が撮影、編集しているドキュメンタリー番組で、

「男女2人が、世界の秘境で何も持たずに20日間をともに生活する」

というシンプルな番組です。

アマゾンの奥深く、文明の利器が何もない場所で、食料や水を自分たちで調達しながら生き抜くのです。

都会では価値のある「自動車」「バス」「デパート」などはなく、食べ物もなかなか手に入らず、20日間を待たずにリタイヤしたり、20日後には体重が十数キロ減少してやつれてしまいます。

もちろん、その場に自動車があっても道がないために使えません。

 

この番組で、「人間の本性」や「本質」を観ることで、理屈抜きに面白さを感じるとともに、

視点を変えてみることでさらに面白さが増します。

「普段、自分たちの口に入る食料は、こんなにも価値があるのか…。」

「この場所に、お金に価値はないのだろう…。」

「20日ではなく、こうした秘境に生きていた人の知恵ってどんなだろう…。」

というように、想像する楽しさがあります。

 

ここで私が話したい主旨に、

「価値は時と場合で変わる」

「同じものでも人によってその価値は違う」

ということ。

 

砂漠で遭難した人に、大金を与えるよりも喉を潤す水のほうが喜ぶといった具合です。

このことを、学校現場の子供たちと重ねてみます。

 

子供たちは、学校の何に価値を求めているのでしょう。

 

過去に担任した子に、学校に来る理由を尋ねたところ「給食」と答える子がいました。

理由は、「おなか一杯食べられるから。」という少し複雑な家庭の子でした。

「友達と遊びたいから」

「好きな子に会いたいから」

「勉強が楽しいから」

そんな、価値観の違う子が大勢通う学校に、どんな役割があるのかいつも考えます。

保護者や地域から求められるものも多岐に渡っているため、教育界は迷走してしまうことも事実です。

 

でも、私は学校の本質を考えたときに、

「授業が楽しい、授業内容が分かる。」

という思いや実感をすることが最優先だと思っています。

それは子供だけじゃなく、そこで働く教職員も。

授業を通して、人とつながったり、人の考えを知ったり、

自分の変容を感じて喜んだりするための授業構築が教員の使命だと思っています。

子供たちは、年間1000時間も授業をします。この時間を、いかに有効に使うか?

それが学校に試されているということ。

全ての子たちが、授業に価値をもっているかというとそうではないことが多いものです。

でも、授業で変える・授業で変わるための手立てや感性、価値を教職員はもっているべきだと思うのです。

 

先日、私あてに手紙が届きました。

以前、他県から渚滑小学校に訪問した児童がいました。差出人はその子の保護者です。

子と交流時間を作ってくれた職員への感謝とともに、学校ブログのことについてふれてありました。

子供たちの様子だけでなく、職員の頑張りや思いを代弁する目的で綴っている内容に、

感銘を受けてくださっていました。

その方の心意に刺さった何かがあるのでしょうが、

ブログに価値を与えてくれていることに私は深く感動しました。

とともに、こう思いました。

「学校ブログの価値って大きいな…。」と。

 

人の価値観は違って当たり前ですが、

そこに自分の思いや感情をどう表現するか、

本質を観る眼が大切だとつくづく思います。

私もまだまだその域には達してはいませんが、

学び続けようという気持ちに変わりはありません。

 

納得解~養護教諭のメッセージから

本日発行の2月「ほけんだより」に目を通すと、興味深い主張がつづられていました。

要約すると、

『みんな仲良く、我慢して人と接する』ことを画一的に思考させてしまうことで、人とのかかわり方について考え   

  ることをやめてしまう危険がある。人との考え方には違いがあることを前提とすべき』

ということ。

 

養護教諭は、外科的な対処のほかに、子の心に寄り添い、助言したり、励ましたりする重要な仕事があります。

ですから、多くの子ども達に接することから、担任同様、悩みも尽きないものです。

「これでいいのか…。」

「ほかに手立てはないか…。」

といったこと。

 

納得解(なっとくかい)という言葉があります。

5+5は10 というのは、正解です。

でも、

□+△=10 となると、正解は多数あります。

 

生活の中をみると答えは多数あり、場合によっては正解がないかもしれません。

そんな問題に、自分やみんなが納得できるような解こそが、「納得解」だということです。

「時と場合によって正解は違う」ということです。

「人と仲良くしたほうがいいに決まってるけど…。」

 に続く納得解を学ぶ必要があるということです。

 

現在、日本の学校で進めている教育は、

自分の考えを持ち、周りとコミュニケーションをとるために「知識や技能」を確実に培い、

その能力を、場合に応じて使うことで、人間関係をよりよくしよう

ということです。

 

当然、学校だけでこの課題を解決することは難しいという納得解は、

みなさんも共有していただけているでしょう…。

 

(※「がっこうだより」のメニューに、今月のほけんだよりをアップしています。

   ご覧になってください。)

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本日、第77回卒業証書授与式を挙行いたしました。 玄関には、卒業を祝う職員からの言葉や、在校生の言葉、関係各位からのお祝いの言葉が並んでいます。       私は、卒業式の前に、「修了式」であいさつしました。   「皆さんは『けじめ』ということばを知っていますか?  簡単にいうと、『遊ぶときは遊ぶ』『勉強するときはする』と言ったこと。  このけじめと「挨拶」をつなげて考えると、挨拶というのは、違う見方ができると思います。    毎朝、校長先生は玄関でみんなと挨拶をしました。  『おはようございます。』  この言葉は、校長先生とつながる言葉です。  でも、みんなにとって、「けじめ」をつける言葉でもありませんか?  学校に来て、「おはようございます。」と挨拶をするのは、それまでいた自分の家から学校での生活に変わるというけじめ。  学校で、「さようなら。」と挨拶するのは、学校を出て、これから違う場で生活するというけじめ。  そういう見方をすると、挨拶は自分のためでもあるってことです。  けじめをしっかりとつけることができるようになったか、卒業式の皆さんをみていますよ。」    卒業式で、かっこいい姿の在校生を見たく...
今朝、子供たちが登校して教室に向かう途中、 「ゆくりば」が目に留まりました。 「おっ! 名前、決まったんだ。」 「ゆくりば?」 『ゆくりばの言葉から連想するものは?』 と尋ねると、 「ゆっくりする場?」 と想像する子。 沖縄の方言だそうで、子の想像通り、「ゆっくりできる場所」という意味があるそう。   ここ数日で、「ゆくりば」が変わっています。 1、2年生のおすすめ本が置いてあったり、 今後、この場の使い方を考えたり…。 何かが変わると、思考が変わり、 思考が変わると行動が変わります。
本日、渚滑中学校長と相談の上、両校臨時休業の対応をとりました。 下校時の暴風雪が予想され、子供たちはもちろん、送迎する保護者、職員の安全確保のためです。 昼過ぎ、下校予定時刻あたりに外を見るとホワイトアウトの状態でした。 早朝から公務補が除雪作業を進めてくれていました。 「吹きだまってます。」 とのこと。   急な臨時休業の対応に、ご理解ありがとうございます。 道東を中心に、猛吹雪の地域もあります。 もうしばらく暴風雪の予報です。 事故のないことを願っております。
本日、渚滑中学校の卒業式でした。 在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞を聞き、 その時の情景が目に浮かぶ内容でした。 楽しいことだけでなく、人間関係や自分の生き方に悩んだけれど、 支えてくれた仲間や先生に感謝したいという メッセージを受け取りました。   保護者の方々に目を向けると、我が子と対峙し、支えてきた中で生まれる喜びや苦しみ、 親としての葛藤があったことを察しました。   卒業生10名に寄り添い、支えてきた職員の方々にも敬意を感じます。   明日から、自分たちの選んだ道を進んでいく 10名の背中を見送ったとき、 「生きろ」 という思いが脳裏にやどりました。   ご卒業おめでとうございます。
流氷が姿を消し、プラスの気温となってきて学校の周りの雪解けも一気に進みました。 歩いて登校する子に、 「道の雪は解けてるかい?」 と尋ねると、 「結構アスファルトが出てきてます。」 と答えてくれます。   学校の玄関先にあった、低学年が2月20日に作った雪だるまも…、 この通り。 消えていく運命です。 校舎周りの様子も様変わりし、あちこちに水たまりができています。 私事ですが、この時期の水たまりを見るといつも思い出すことがあります。   私の息子が幼き頃のこと。 春先の時期ではなかったのですが、少し暖かくなってからのことです。   仕事から帰宅した私に、妻が数枚の写真を見せてくれました。 その写真は、息子とその友人が道のくぼみに溜まった水たまりで遊んでいる場面でした。 最初は加減して遊んでいたのに、そのうち羽目をはずして ズボンも服もべちゃべちゃどろどろになっています。 べちゃべちゃで真っ黒なのに、裸足になってにっこり笑っているのです。 【イラストフリー】 道端の水たまりですから、不衛生を指摘されれば否定できませんが、 私はその写真を見て嬉しく思いました。   幼いからこそ味わうことを経験していたからです。 無理...