2025年3月の記事一覧
人を理解するということ(ゲストティーチャー来校)
先日、ゲストティーチャーがいらっしゃいました。
「小川 夏妃」さんです。
生誕したときから目が見ない状態だったらしく、現在は、就労支援施設で働いていらっしゃいます。
以前、高学年の児童が、この施設を見学しました。
施設を見学するだけでなく、実際に作業してみました。
割り箸を袋に一膳ずつ入れていく仕事です。
その時、一緒に作業してくれたのが小川さんでした。
目をつぶって作業したり、小川さんと話をしたりしながら時間を過ごしました。
「結構難しい…。」
とつぶやいていた子供たち。
今回は、学校に来ていただいて、まず、給食を一緒にとりました。
配膳をするときに、ヘルプをした子が、
「緊張した…、どうしたらいいのか分からなかった…。」
とつぶやきました。
私たちは、視覚から情報を得て判断したり、
視覚から得た情報が、感情につながることが当たり前となっています。
当たり前の配膳が、当たり前でないと分かった時、ヘルプをした子のつぶやきも納得できます。
給食後、小川さんを囲んで学習しました。
「見えないけど、他の感覚は研ぎ澄まされていると思います。」
という言葉を聞き、担任は、紙風船を用意しました。
風船の中に鈴が入っています。
紙風船を使って、みんなでバレーパスをすることにしました。
でも、紙風船ではなかなかうまくいきません。
鈴がなかなか鳴らないのです。そして、すぐに地面に落ちてきます。
その場にいた大人も子供も、どうしたら続くかなぁ…。と考えました。
「普通の風船なら、ゆっくり落ちてくるんじゃない?」
ということで、風船を用意し、鈴を入れてパスしてみました。
でも、うまくいきません。
音が鳴らないのです。
小川さんにとって、音が全てです。
視覚ではなく、聴覚から情報を得ている人について理解を深めます。
「どうしたらいい…?」
「小川さんにパスをするときに、名前を呼んだら?」
「よし、やってみよう!」
でも、うまくいきません。
「う~ん…。」
この時の子供たちは、小川さんの立場になっているのです。
これが大事。
次のゲームに移りました。
伝言ゲームです。
背中にひらがなを書いて、次の人の背中に伝言していくものです。
一列になって、始めることにしました。
でも、その時です。
施設の方が、こう言いました。
「あっ! これ、小川さん、できないんじゃない?」
と言うのです。
この気付きをした施設の方は、さすがだと思います。
そこにいた全員が、
「どうして? なぜ、できないの?」
といった感じ。
なぜ、この簡単なルールの伝言ゲームはできないか、お気付きでしょうか?
子供たちに気付かせたい視点でした。
なぜなら、小川さんは、「点字」で文字を認識しているので、私たちが認識する、日本語の形を理解していないのです。
ですから、小川さんの背中に、私たちが知っているひらがなを書いたとしても、何の文字なのか分からないということです。
文語(書き言葉)認識の違いです。
そこで、順番を変えることにしました。
小川さんが一番先で、問題を出す役割です。
私は、この学習を通じて感じたことがあります。
福祉ってなんだろう?
障がいを理解するってなんだろう?
当たり前ってなんだろう?
人を理解するってなんだろう?
ということ。
今回、交流したゲームをみても、全盲の人にはできることと、できないことがある。
私たちにだって「できること」と「できないこと」がある。
同じだ。
でも、全てが同じかというとそうでもない。
そう考えると、人間が生きていく本質が見えてくる気がします。
「人は補い合いながら生きていく」
ということ。
五感に不自由がある人を特別視する必要もなく、何でもかんでも手を差し伸べる必要はない。
その人を理解して何をお手伝いするか?
だから、目が見えない人はボール運動ができないという、一方向からの決め付け先入思考ではなく、
できるボールゲームだってある。音がなるボールを使えばできる!
という発想で生まれたスポーツもたくさんあります。
昨日のブログ同様、「人によって価値は違う。人によって補うことも、補い方も違う。」
どんな人だとしても、その人を理解する必要がある。
今回の学習意義は、福祉を通じた、「人間理解」なわけです。
このブログをみなさんに紹介できても、このままでは小川さんに伝えられない…。
どうしようか…。
そう考えることも、「人を理解するスタート」なのかもしれません。
今回の学習を進めるにあたり、ねこやなぎの小堀さん、社会教育の高橋さん、そして、自分の人生を教えてくれた小川さん、ありがとうございました。
今後もよろしくお願いします。
みんなで感謝(六送会)
「みんなで最高の時間にしましょう。」
在校生代表の言葉からスタートした「六年生を送る会」
とても素敵な会になりました。
1,2年生は、全校児童でドッチボールをします。
その説明、お礼の言葉など4月と比較すると、自分たちで動くことができる様子が見られました。
整列や、説明のタイミングなど、担任の手を借りずに進めていました。
中学年の声がいい。
説明するときの声。その時の眼が生き生きとしています。
だから、聞く人を引き込むことができるのです。
5年生は、「6年生の思い出のシーン」を、写真で振り返りました。
保護者の方々も参観しています。
渚滑小学校は、こういうところがいい。
保護者も気兼ねなく、学校にやってきます。
6年生は、数年前の自分の写真を見て、何かを感じているようです。
手作りのくす玉を割ると、「わぁああ!」と歓喜がわきました。
6年生は、お礼として「しっぽ取り」を企画しました。
自分たちがしっぽを取られないように逃げる役です。
私は最後に、挨拶しました。
「六年生のみなさん、あなたたちの人生はバラ色で明るいですか?
校長先生は、そうは思わない。
だって、これから思い通りに事が進まないことが増えたり、やりたくないことがたくさん出てきたり、
人に嘘をつかれることだってある。
でもね、その先を明るくすることだってできる。
何か行動を起こすこと。
先を明るくする努力をしてほしい。
困ったとき、仲間を頼ればいい。
信頼できる大人に相談すればいい。
そうやって生きてほしい。」
私は、こういう挨拶をするときに原稿を作らないで話すことが多いのですが、
今回の「六送会」に参加して、そんな言葉が頭に浮かんできました。
強くやさしく生きておくれ…。
未来を明るくするチャンスは誰にでもある。
その方法をつかんで生きてほしい。
その素地を身に付けるお手伝いを、先生たちはしてきたよ。
そんな思いからでしょうか。
職員室に帰る途中、ある女の子と話しました。
「どうだった?」
『楽しかったし、6年生すごいなと思った。』
「ん? 何がすごいと思ったの?」
『しっぽ取りの時、6年生、手加減してくれてた。
あまりにも取れなかったら面白くないし、低学年のときだけ、
様子見てくれたから。』
「そういう気付きができるあなたもすごいよ。」
笑顔いっぱいの素敵な送る会になったのでした。
学校の価値とは
しばらくの間、このブログをアップせずにいたところ、数名の方から、
「校長先生に何かあったのでは…?」
「学校で何かが??」
という憶測を呼んでしまったようです。
私はいたって元気でございます。
子供たちも、職員も元気でございます。
久しぶりのつぶやきではございますが、文章のみのお話です。ご了承ください。
テレビを観ていました。
海外のテレビ局が撮影、編集しているドキュメンタリー番組で、
「男女2人が、世界の秘境で何も持たずに20日間をともに生活する」
というシンプルな番組です。
アマゾンの奥深く、文明の利器が何もない場所で、食料や水を自分たちで調達しながら生き抜くのです。
都会では価値のある「自動車」「バス」「デパート」などはなく、食べ物もなかなか手に入らず、20日間を待たずにリタイヤしたり、20日後には体重が十数キロ減少してやつれてしまいます。
もちろん、その場に自動車があっても道がないために使えません。
この番組で、「人間の本性」や「本質」を観ることで、理屈抜きに面白さを感じるとともに、
視点を変えてみることでさらに面白さが増します。
「普段、自分たちの口に入る食料は、こんなにも価値があるのか…。」
「この場所に、お金に価値はないのだろう…。」
「20日ではなく、こうした秘境に生きていた人の知恵ってどんなだろう…。」
というように、想像する楽しさがあります。
ここで私が話したい主旨に、
「価値は時と場合で変わる」
「同じものでも人によってその価値は違う」
ということ。
砂漠で遭難した人に、大金を与えるよりも喉を潤す水のほうが喜ぶといった具合です。
このことを、学校現場の子供たちと重ねてみます。
子供たちは、学校の何に価値を求めているのでしょう。
過去に担任した子に、学校に来る理由を尋ねたところ「給食」と答える子がいました。
理由は、「おなか一杯食べられるから。」という少し複雑な家庭の子でした。
「友達と遊びたいから」
「好きな子に会いたいから」
「勉強が楽しいから」
そんな、価値観の違う子が大勢通う学校に、どんな役割があるのかいつも考えます。
保護者や地域から求められるものも多岐に渡っているため、教育界は迷走してしまうことも事実です。
でも、私は学校の本質を考えたときに、
「授業が楽しい、授業内容が分かる。」
という思いや実感をすることが最優先だと思っています。
それは子供だけじゃなく、そこで働く教職員も。
授業を通して、人とつながったり、人の考えを知ったり、
自分の変容を感じて喜んだりするための授業構築が教員の使命だと思っています。
子供たちは、年間1000時間も授業をします。この時間を、いかに有効に使うか?
それが学校に試されているということ。
全ての子たちが、授業に価値をもっているかというとそうではないことが多いものです。
でも、授業で変える・授業で変わるための手立てや感性、価値を教職員はもっているべきだと思うのです。
先日、私あてに手紙が届きました。
以前、他県から渚滑小学校に訪問した児童がいました。差出人はその子の保護者です。
子と交流時間を作ってくれた職員への感謝とともに、学校ブログのことについてふれてありました。
子供たちの様子だけでなく、職員の頑張りや思いを代弁する目的で綴っている内容に、
感銘を受けてくださっていました。
その方の心意に刺さった何かがあるのでしょうが、
ブログに価値を与えてくれていることに私は深く感動しました。
とともに、こう思いました。
「学校ブログの価値って大きいな…。」と。
人の価値観は違って当たり前ですが、
そこに自分の思いや感情をどう表現するか、
本質を観る眼が大切だとつくづく思います。
私もまだまだその域には達してはいませんが、
学び続けようという気持ちに変わりはありません。