2024年4月の記事一覧

元気な子供たちと先生

 GW真っ只中ですが、中3日間は学校です。

今日、畑つくり(畑起こし)をしました。

 「いただきます。」

の意味を子供たちは知っているでしょうか?

(命を)「いただきます。」は、誰でも知っているでしょうが、「この命を育ててくれた、苦労や恵」に感謝する思いを、「いただきます。」に込めるのです。

 

 子供たちは、その命を育てる「土」を作ったということです。

 こうした子供たちの活動を先に支えてくれたPTA、地域の方です。

 この後、子供たちは「命の種」を植え、命を育み、その命をいただくことになります。

植えっぱなしにならないように、どういう仕込みができるか、教師の腕の見せ所でもあります。

 

 私も以前、お米農家の方に協力をいただいて、「機械化」の学習をしたことがありました。

先に、子ども達が手作業で稲を植えます。

手で稲を植える作業は大変で、すぐに子供たちも「ね」を挙げていました。

「もう、いやだよ…。」

その言葉を聞いた時、

「お願いしま~す!!」

と叫ぶと、地域のお父さんが田植え機に乗って登場するのです。

子供たちは何事かとびっくり。

 

 その様子を横目に、田植え機があっという間に、等間隔で稲を植えていきます。

そこで、一言。

「機械化によって、米農家にはどんな変化があると思う?」

 

 ここで、子供たちの好奇心に火をつけるのです。

学習の全てに、意図的に意味付けをすることで、学習の深まりは変わります。

 

 話は逸れましたが、渚滑小の先生たちも、学んでいます。

 救急救命の研修です。

AEDの使い方、心臓マッサージについて確認します。

 いざという時の対処法は、毎年確認する大事な研修です。

昨年は、福岡県の1年生が誤飲により窒息死してしまう事故がありました。

その誤飲対応についても確認しました。

 

 大人も子どもも「想定・準備・確認」は、大切なのです。

 

 さらに話は変わります。

 毎日、職員室と校長室に挨拶をする子がいます。

「おはようございます。」

「さようなら!」

 継続は力なり。

 継続は人なり。

 

   素敵な気持ちになることができます。

遊ぶということ

 今日、中休みに体育館をのぞいてみました。

子ども達の歓喜の声が聞こえます。

遊び方は様々。

長縄を跳んでいたり、バドミントンをしたり、ボール遊びをしたり…。

 その中に、先生の姿もありました。

 とても素敵な空間でした。

 

 こうした遊びの時間に、子どもの「素」の姿が見えるものです。

いつもは走り回っているのに、元気がなかったり、ルール上のトラブルで喧嘩になったり…。

こうして、子どもの様子を把握する場でもあります。

 

 そんな場面で、大人はどうかかわるべきか…。

「解決策を教えない」ことに尽きると思います。

 

 せっかくトラブルになったのに、その解決策を大人が提示して、子どもは何を学ぶのでしょう?

 そんな状態が続くことで、「トラブルは誰かが解決してくれる」という間違った学びをしてしまうのです。

 つまり、大人がいないと遊べない子を育ててしまうと言っても過言ではないのです。

 

 しいて出番があるとすれば、

「どうしてあなたは、そうしたかったの?」

「〇〇さんの立場なら、どうする?」

といった、解決のための整理をしてあげることかもしれません。

 

 遊びのルールは変わっていいのです。変え方を学べばいいのです。

 何とか自分たちで解決できたという誇らしさを感じ、そしてトラブルを乗り越えた後に、みんなで笑えたという安心感を味わえるよう、私たちは支えていきたいものです。

 

 

学ぼうとするときの姿

 今日の子ども達の様子を観ていると、思わず楽しくなってきました。

 2年生の算数の時間で、24+15の計算の仕方を説明していました。

ここでのねらいは、24を20と4に、15を10と5に分け、10のまとまり、1のまとまりで考えることです。ひっ算の位取りにつながる学習です。

「…ということです。質問はありますか?」

という子の問いに、私は思わず、

「どうして、10と5に分けるの? 8と7でも、12と3でもいいじゃない?」

と揺さぶりました。

 

少し考えた子は、

「だって、10のまとまりと1のまとまりに分けて足した方が分かりやすいから。」

『じゃぁ、15じゃなく、28だったらどうするの?』

と続け様に尋ねると、他の子が、

「20と8に分けるんじゃない?」

と口を挟みます。

 

 そうです。この状態が大切です。

1人が分かればいいのではなく、ほかの子もみんなが理解するように、仕向けるのです。

 

 

 この学級では、〇m×△m×□mの立方体の体積を求める学習をしていました。

 

ただ公式を使って計算するのではなく、1㎥の実物大を用意して、

「この大きさが何個分だろうね…。」

と考えさせていました。

 

 子が学ぼうとする時とは、「やってみたい」「できそうだ」「どうしてだろう」という学びの必要感を味わった時です。

 ですから、そう思わせるように指導者は意図的に仕向けるのです。

そんな授業を1年間(6年間)続けることが、「学び続ける」ことにつながるのでしょう。

 学ぶことが習慣付けることができれば、「学ぶことの価値」を感じ、興味があろうがなかろうが、目の前の課題を解決しようとするのです。

 

 どきどき、わくわくしながら学校で学ぶ子ども達、職員であってほしいです。

 

当たり前を続けることは難しいけど…。

 「躾」(しつけ)について、考えることがあります。

 

「躾」と「習慣」は表裏一体の関係にあると思います。

皆さんは、歯を磨くとか顔を洗うという行動が、「習慣」になっているはずです。

休みの日だからといって、歯を磨かずにいるとなんだか気持ち悪い感じがしませんか?

 だから、自然と歯を磨いたり、顔を洗うことをしているはずです。これが「習慣」です。

 

 こうした習慣を身に付けるために、親は口うるさく言うはずです。

「歯を磨きなさい。」

「顔を洗いなさい。」

しつけとして、その動作の意味を何度も何度も諭すのです。

 

「靴を揃える」

という動作を見てみましょう。

 

 脱いだ靴を揃えるという動作は、実は面倒な動作が1つ入ります。

「かがむ」

ということ。

 この動作がなければ、家に入ることがもっと早くできるはず。

子どもは、何も言わなければ靴を脱ぎ散らかします。面倒だからです。

 でも、家から出るときに、靴を揃えていた方がそのまますっと靴を履くことができるし、そのことを意味付けて意義を理解できれば、自然と靴を揃えます。

 

 つまり、その習慣が身に付けば、良いこともあるし、やっぱり見ていて気持ちがいいものです。

 でも、続けることは、案外難しいことで、習慣付けるためには何度も何度も繰り返すことが大事ということが分かります。

 

私は、集会の時にまず観察する視点があります。

 

「靴」です。

整列している子ども達の靴を見て、紐を縛っているか、かかとを踏んでいないかを観ます。

 

 こういうところに、習慣が表れ、その時の気持ちが見えることも多いからです。

 

登校したあとの玄関にも目を向けます。

 下駄箱の靴が揃っているかです。

 

 色々な学校へ行く機会があるので、私はついでに下駄箱の様子を観察します。

踵を踏んでいる子が多いなぁ…。

靴がそろっていないなぁ…。

 と感じる学校の授業を参観したとき、授業が立派でも、どうも腑に落ちない感じがするものです。

 

 人によって当たり前と思うことは違えど、不変の教育はあります。

胸を張って、「当たり前を指導しています。」

と言える学校でありたいし、そういう大人でいたいと思います。

 

先生の声掛け

 ふと考えることがあります。

一日が終わり、その日の出来事を思い出したとき、その中で記憶に残っている言葉ってなんだろう…と。

 

 先生に褒められたとか、叱られたとか、

友達にうれしい言葉を掛けられたとか…。

 学校の先生の言葉って子供のやる気を促すこともできるし、よかれと思って掛けた言葉が逆効果になることもあります。

 

  

 本日、全校体育があり、縄跳び検定をしました。黙々と取り組む子供たちです。

先生たちも子供たちに声を掛けています。

 たっぷり縄跳びに取り組んだ最後に、担当の先生が次のように話しました。

「みんなが頑張っている姿はもちろんよかったのですが、

 〇〇さんの姿がよかったです。お友達の頑張っている様子をみて、『がんばれ!』って声を掛けていたからです。」

 すぐにできなくても、自分のできることを表現するのは、これからの体育では必要な視点です。そこを価値付ける言葉で、認められた子は自分の行動を肯定することができますし、他の子供たちも「次はそうしよう!」と目指すすがたが明確にもなるのです。

 

 その後、縄跳びの「目標」を設定している高学年の教室を覗いてみました。

 担任が面白い声掛けをしていました。

「もし、高学年の君たちが、汗をいっぱいかいて縄跳びをしていたら、下級生たちは何を思うだろう…。」

 

一瞬、教室がシーンと静まりました。

この瞬間は、子供たちが思考している(真剣に考えている)表れです。

「…きっと、その姿を見たら、自分たちも負けないで頑張ろうと思うとおもう。」

「真似すると思う。」

 

自分のことはもとより、高学年とは学校のめざす姿であることを理解し、多面的に思考させる「声掛け(問い掛け)」でした。

 

 ひらがなを練習してる一年生教室を覗いてみました。

いい字を書いています。

 その時、担任が、「鉛筆の持ち方、上手ですね。」

と声を掛けました。

「きれいに書きなさい。」

と指示しても、何をもってきれいな文字なのか分かりません。

それよりも、「鉛筆の持ち方」を徹底して褒めることで、筆圧が安定し、整った文字を書くことにつながります。

 

 このように、大人の言葉は、とっても大切です。

でも、先生だって(親だって)時には、結果的に間違った声を掛けてしまうこともあるでしょう。

そんな時は、

「ごめんね。こうなってほしかったんだ。」

と謝罪して意味を説明するしかないのです。

 

 みんなが同じ声を掛けるのではなく、自分ならこう言う! 自分にしかできない声掛けとは? を考えて実行できるほうが、楽しい世の中になると思うのは、私だけでしょうか?