2024年9月の記事一覧

学芸会を前に…。

 

この写真は、学芸会を明日にひかえ、

最後の低学年体育館練習の様子です。

 

一年生の大事な役割の一つに、「はじめのことば」があります。

立ち位置、ことばの言い方、動きを確認しながら

自分たちの役割を果たすとともに、

これまで学習してきた成果を表現する場でもあります。

 

私が思う学芸会という行事は、子供たちだけでなく、

「指導者(担任)の指導観を鍛える」行事でもあると考えています。

 

数日前、「総練習」を行いました。

総練習が終わったあと、職員が振り返りの反省会議をしました。

各学年の種目に対して、忌憚のない意見交流が続きました。

「立ち位置を変えたほうがいい。」

「BGMに工夫を。」

「あそこの「間」が気になるから、こうしたほうがいい。」

 

協議を経て、その後の3日間の仕上げの指導に入りました。

 

今日の中学年の練習で、

子供たちの振り返りを生かして、その視点で再練習を重ねています。

でも、子供たちだけでは気付かない面もあります。

その時、担任は、

「ここはどうだった?」

と問います。

 

私は学芸会で、先生の動きを見ます。

4月からここまでの学級指導と教科指導の両方を見取ります。

演じたり歌ったりするとき、その指導者の「こだわり」はどこにあるかです。

ふとした台詞や簡単な動きに、

子供がこだわっているか?

指導者がそのように仕掛けているか?

が現れるのです。

指示や問い掛けに筋が通っているか?

子供たちが戸惑うような言葉になっていないか?

などです。

 

「声を大きく!」と言っても、

それは具体的な指示とは言えず、変容がない場合が多いのです。

それよりも、

「言葉の一番最初の一文字を大切に、高い声で言ってみよう。」

と指示して話させると、子供自身がびっくりするくらい変容します。

 

こうした指導をこれまでにしてきたか?

音読を大切にしてきたか?

つまり、普段の学習を大切に、要点をおさえて指導してきたか?

が分かるのです。

 

 

低学年の練習が終わり、

担任が、話を始めているのに注目していない子が数人いたとき、

何度もやり直しさせて聞く姿勢をとらせました。

毅然と指示を出しています。

大事な指導です。

 

個別に「価値付け」ている様子もありました。

「〇〇がよかったよ。」

と声を掛けているのです。

 

学芸会当日は、ステージの表しか観覧できませんが、

これまでの過程、裏方の動きが分かると、

もっと価値のある行事になります。

 

明日の学芸会・学校祭にはお気を付けていらしてください。

お待ちしております。

親のかかわり

 朝の登校時間に、興味深いシーンを見ました。

私が玄関に行くと、

「校長先生、おはようございます! 

 これ! トノサマバッタです!」

と見せにきた子がいました。

『ほぉ! 立派なトノサマバッタだ。』

 

 その子は、

「逃がしてあげるんだ。」

と、玄関前の草原に駆け出しました。

そして、虫かごのふたを開け、

「出てけぇ!」とバッタが出ていくのを待っています。

でも、小さなふたから出ていく様子はありません。

 

そこで、

「そうだ! 草をあげたら食いついて出ていくかも?」

と考え、草をふたの近くで揺らしています。

 

バッタが出ていく素振りはありません。

 

次に、

「そうだ! ふたを全部とってしまおう!」

と考え、むしかごのふたをとろうとしました。

でも、かごからふたはなかなか外れません。

 

そこで、

近くにいたその子の母親に近付いて、

「これ…。」

と言いました。

でも、その母は、すぐにこう言いました。

「自分でやってごらん。」

と、にっこり笑っています。

 

その子は、母親は助けてくれないと判断し、

自分で挑戦しました。

少し時間が掛かりました。

でも、

 

「開いた!!!」

自分でふたを外すことに成功しました。

(やったぞ! ぼくは自分でやったぞ!)

という心の声が表情に表れています。

 

ふたが外れた虫かごを、そっと地面に置きました。

 

それでも、バッタは逃げません。

 

さて、どうするか…?

その子は、かごを手に取り、勢いよく走り出しました。

「にげろぉおおお!」

 

すると、中のバッタはびっくりして飛んでいきました。

『やった、逃げたぞ!飛(跳)んでるぞ!』

と興奮して私が叫びましたが、

その子は、バッタを見失っているようで、

全く逆の方向に手を振って、

「ばいばぁ~い!」

と青空に向かってにっこりしていました。

 

 多分、立派なトノサマバッタを誰かに見せたかったのでしょう。

立派なだけに、怖くて触ることができないけど、

何とか逃がしたかったのでしょう。

 その時、大人が代わりにバッタを逃がすこともできましたが、

私は、この子の興味や力を見守ることの方が大事だと感じました。

怖がっている子の代わりに、かごを預かり、

代わりにバッタを逃がした方が早いですが、

でも、この子の知恵や喜びを奪ってしまうことにもなります。

 

ふたを外してあげることもできましたが、

母親が、

(できるよ。がんばってやってごらん。)

と見守る姿に、同じ気持ちであることに嬉しく思いました。

子への期待、不安、親のかかわり方が、私の思いと一致していたのです。

 

 時々思い出すことがあります。

私が過去に勤務していた学校では、

子供が親を使い走りにして、

「やってもらって当たり前だ」と勘違いしているのか?

と思わせる場面を何度も目にしたことがあります。

 

例えば、

参観日に保護者が来ているときに、

帰りの会が終わり、一緒に帰ろうと子供が親の前に近寄りました。

すると、自分のカバンをポンと親に投げ、

「持ってって。」

と言うのです。

結構な頻度で目にしました。

こういう、親の存在を(蔑)さげすんだ子供を

そのままにしていいことはありません。

「なぁ、〇〇さん。親にそんな態度はだめだ。

 自分で持って帰りなさい。」

と、大勢の前で告げたこともあります。

 

玄関を親が開けるまで、自分で出ていこうとしない子…。

雨が降ったら傘を親が届けることが当たり前だと思い、

傘を持ってきた親に向かって、

「遅い!!!」と文句を言う子…。

 

親子のかかわり方に正解はないと言われるけれど、

やっぱり、「子が親より偉いんだと思わせる行動」に対して、

そして自立に向けた本質の、

「自分のことは自分でやる」

「困ったら、自分で助けを求める」

という諭しは、親の大事な役目だと私は思います。

 

…そうは言うけど…、親の悩みは尽きぬものです。

 

朝の玄関

 子供たちを迎える準備として、

公務補が玄関先を掃いています。

枯れ葉を掃いているようですが、

実は、これです。

お分かりですか?

「クスサン」という蛾の羽です。

今年は異常発生しているようです。

電気に集まったクスサンを食べたカラスによって、

無残に散らかった、羽があちこちに…。

 

玄関がきれいになったころ、

地域の「見守り隊」の方が、やってきます。

 

最近、学校一番乗りの子は、

「校長先生 おはようございます!」

と、自分から先に挨拶します。

周りの大人たちを見付けて、

挨拶をしています。

『自分から先に挨拶できるんだね。

 立派だな。』

というと、にやにやしています。

 

その頃、スクールバスが到着し、

一気に明るい玄関になります。

「おはようございます!」

自分から私たちに声を掛ける子は、全校児童のうち三分の一ほどでしょうか。

 

7時45分 玄関開錠まで、雑談をします。

この時間がとってもいいです。

「校長先生! 今日も黒ですね。」(服の色)

「昨日、〇〇に行ってきました。」

(絆創膏を貼っている子を見掛けて…)

『ん? そこどうしたの?』

「昨日、転んじゃって…。(どこで?)遊んでた時に…。」

「マラソン記録会の練習してます。

家の周り、5周してます。」

『へぇ!やるね!』

 

なんていう世間話から、話に花が咲きます。

こうして、一日がスタートします。

眠たい目をこすりながら来る子もいます。

 

朝の玄関は、情報の玉手箱なのです。

 

【机の中を整理整頓する】

この指導、とっても大事です。

学校の強みとは

 【木村のつぶやき…】

 

 先週、今週と多くの来客がありました。

業者の方との調整だけでなく、授業を参観してもらった後に、

渚滑小の教育活動を説明する機会も多かった一週間でした。

 

 私も最後に挨拶する機会があったのですが、

ふと考えたときに、「渚滑小の強み」とは何かを改めて考えてみたのです。

 

これだと思いました。

 放課後、子供たちの情報、今後の指導について話し合っている職員。

休み時間に一緒に遊ぶ職員。

子供がこぼした水を拭く姿。

 

私は、なんでもかんでも子に手を差し伸べる教育が良いとは思っていません。

乱暴に聞こえてしまうかもしれませんが、

子供のできること、乗り越えさせなければならない力を

奪ってしまうことがないように接したい!

と思っています。

 

だからと言って、何もしないことがいいとも思いません。

気付かせるという名の放任になってしまわないか…?

 

そうならないために、子の情報をいかに得るか?

だと思います。

 

保護者の方から、相談される機会が増えています。

それはとてもいいことだと思っています。

 

つまり、

「情報を職員で共有する」

「一人で悩まない」

「聞く耳とアンテナを立てておく」

ためにとっている行動が、

自然と渚滑小の強みとなって、子の教育につながっていると思います。

 

…という挨拶をする機会が多かった一週間でした。

 

学びの必要感を

 中休み、昼休み時間になると決まって校長室にくる子が数人います。

1年生です。

ただ、こんな感じです。

 

校長室のドアを「バ~ン」と開けて、

「校長先生! 虫取りに行こう!」

という感じです。

私は、この子たちのいい遊び相手かもしれません。

でも、そろそろ「礼儀」たるものを

教えてもいいかな?と思っていました。

当然、一年生担任も、コツコツと指導しているのですが、

定着するには、何度も指導する必要があります。

 

今日、同じように校長室に入ってきた子に、次のように話しました。

 

「今日も来たな!

 でもさ、〇〇みたいに入ってこられたら、校長先生びっくりするよ。

 だからさ、今度校長先生を誘うとき、

 ドアを3回ノックしてくれないかな?

 やってみるかい?

 『コン、コン、コン。』

 そう!

 その次に、『失礼します。』って言えば、かっこいい!」

  

 昼休みになりました。

私が校長室で仕事をしていると、

『コン、コン、コン。』

(おっ!? きたな?)

「どうぞ!」

 シーン…。

 

こちらから、

「しつれいしますって言って入ってきていいよ。」

と言うと、

「校長先生! 虫捕りに行きましょう!」

とドアを開けて入ってきました。

 

「覚えていたね。ノック3回」

『へへへ…。』

「よし、行くか!」

「ノック2回は、トイレに入るときだからね。」

『へぇ…。』

 

その後、外へ出て、オニヤンマを捕ったのです。

 

 私はこの話の中で、「学びの必要感」についてお話ししたい。

 

校長室、職員室に入るときに、「ノックをして、失礼します」と言ってから入る。

という指導をするときに、どんなタイミングでどの場面が効果的か?を考えます。

 

礼儀や躾ですから、理屈なしに指導すべきです。

でも、子供目線になって、どうすれば腑に落ちやすいかを考えることも、

「教育」の意義です。

 

今日の一年生にとって、

「一緒に虫取りに付き合ってくれる校長先生を呼びに行く」

という行動をとりたいときに、来室の礼儀を教えることが効果的だと考えます。

それができていないときに、

「あれ? それじゃぁ、いっしょに行けないな。」

と考えさせることも必要です。

 

今まで何度も校長室に呼びに来ていた1年生ですが、

校長先生と虫取りに行きたいという欲求を高めるために、

来室の礼儀について指導するのは待とうと思っていました。

(※自分の欲求を聞いてくれず、違うことで指導されると子は混乱するんです。

  だから、「もういい!」ってことになる…。)

 

このように、子供にとって学びの必要感を感じて学ぼうとしたとき、

インパクトは強いものになり、自分の力として身に付きやすいのです。

 

国語や算数が嫌い 社会が苦手…などという子にとって、

その学習にどうしたら必要感を感じさせられるのでしょうか?

 

それは、「思考のズレをうむ」ことです。

簡単に言えば、

「はて?」「おや?」「思ってたことと違うぞ…。」「試しにやってみたい!」

と思わせること。そうした導入が授業の肝となります。

 

先月の「学校だより」に「学びのスイッチ」について触れました。

学びのスイッチは、人によって異なります。

でも、そのスイッチを探る努力を、教師は続けなければならないのです。

 

…という固い話でした…。

 

【高学年の動きを見た】

昨日、「避難訓練」がありました。

避難するとき、上靴のまま外へ出ます。

そのため、校舎に入るときに上靴の底を雑巾で拭き取らなければなりません。

全校児童が雑巾を使い終えた後の写真がこちら…。

 

雑巾をしまい、玄関を普段通りに戻している5年生の女の子。

全校で使った物の後始末まで、言われなくても考えて行動できること。

「天晴!!!(あっぱれ)」

をあげたい行動でした。