学校からのお知らせ

遠足で見えた、子の臨機応変

 晴天に恵まれた10日の遠足。

風が強かったものの、予定スケジュールを変更するものは何もありませんでした。

 元気よく歩く子供たち。

目的地について、全校遊びが始まりました。

子供たちが事前に準備していたレクを説明します。

その中で、「鬼ごっこ」をすることになりました。

「鬼になりたい人!!」

『ハイ!!』「はい!!」

 

鬼になった子供たちは、今にもスタートしようとしています。

でも、ここである子が、

「ちょっと待って!」

と制止しています。

なぜかというと…、

 

「これじゃぁ、誰が鬼か分からないよ。」

 

「じゃぁ、帽子を後ろにすればいいんじゃない?」

「そうだね、そうしよう。」

「みなさん聞いて! 帽子が後ろの人が鬼ですよ!」

 

こうしてスタートしました。

 

「臨機応変」という言葉があります。

【その場の状況によって、行動や言葉、対応を変えてより適したものに変えていく】

ということです。

 

この言葉通り、その時の状況を判断して対応することは難しいけれど、

こうした学習をするのが「学校」の役割だと思います。

人によって正解は違えど、先を想定し判断して行動することはとっても大切なこと。

学校ではたくさんの失敗もするし、責められることもあります。

 

鬼ごっこのルールも、臨機応変に変えていいのです。

もし、帽子のつばを後ろにするというルールを決めなければ、だれが鬼なのか分からないままだったでしょう。

 

続きがあります。

実際に鬼ごっこをしていると、なんだか不都合がありました。

なかなか捕まらない…。

 

そこでとった新たなルールで、「逃げられる場所を狭くする」ということ。

鬼ごっこの面白さは、追い追われることです。そのスリルが味わえなければ楽しさも半減ですから、

「範囲」を決めるという臨機応変さ。

 

 お弁当の時間にも臨機応変さが。

 

お弁当の時間、独りぼっちの子はいないものの、こんな場面が…。

 

「〇〇ちゃん、一緒に食べよ!」

『うん、いいよ!』

〇〇ちゃんは、その誘いに喜んで敷物を敷いていました。

Aグループの誕生です。

 

するとそこに、違う子から、

「ねぇ、〇〇ちゃん! 一緒にたべよ!」

という別の誘いが…。

〇〇ちゃんは、困ってしまいました。

(自分はAグループなのに…、Bグループにも誘われた…。どうしたらいいの…?)

 

こんな心の声が聞こえてきます。その様子をみて、私はどうするのかな?と興味津々でした。

 

すると、別の子が、こういうのです。

「じゃぁ、みんなで一緒に食べたらいいんじゃない?」

 

『いいね!」』

こうして、AB連合グループが誕生し、みんな笑顔です。

 

 私は、こういう体験がとっても大切だと思うし、新たな考えや折衷案を認めることがとても大切だと思っています。

 その様子を見ていた先生たちもいましたが、すぐに口出しせずに見守り、子供たちのとった行動を褒めていました。

 

 子供たちはひとしきり遊び、楽しんだ後の様子を写真に撮りました。

後片付けもばっちりでした。

 

こうしたことができるように指導して、子供たちの自立を促した遠足だったのです。

熊が出没する目的とは…?

 昨日、予告通り「熊訓練」を行いました。

 

 「もし、熊と遭遇したらどうする?」

という教頭の問いに、グループで考える子供たち。

「目をそらさないで、ゆっくり下がる。」

教頭の授業マネジメントもよく、子供たちはいい眼をして授業に参加しています。

 

その後、熊が登場!(毛皮を羽織った職員ぐま)

遭遇した時の熊との距離によって、とる行動が変わります。

熊と遭遇しないことが大前提ですが、「もしも…。」の時の対応を考えます。

熊の糞や、熊が荒らしたごみの実物を目にして、興味津々の子供たちでした。 

 

最後に、私が子供たちにこんなつぶやきを…。

「缶詰の缶にこんな穴を簡単に開ける熊を前にして、みんなは本当に(落ち着いて)行動できる?」

『できるか分からない…。』

『できないよ…。』

 

「そうだよね…。でも、どうして熊は、この辺に出てくるんだろう…。

 何か、目的があるのかなぁ…。」

と、とぼけてみました。

 

すると…、

「人間を食べに来るんだ。」

という子供のつぶやきが。

 

 熊に対する知識がこのような子供たちに、さらに学習を深めて欲しくて提起した私からの問い。

地域の状況とつなげて、「熊」を考えることはできないかな…。

と思っています。

 

 地域の方も参加した今回の「熊訓練」

渚滑ならではの教材を使って、気付きや思考を深めさせたいものです。

 

熊訓練と渚滑地域の課題のつながり

 

 校長室から裏山を覗くと、シカが草をついばんでいます。

自然豊かな地域です。

 

 でも、なにやら「熊」が近くで出没するらしいです。

 

そこで、教頭が音頭を取って、明日「熊訓練」を行います。

 

先日、GWが始まる前に、職員総出で訓練の進め方の確認をしました。

教頭から入念に説明がありました。

リアル感を出すために、様々な想定が成されています。

「もし、玄関を出たときにクマと遭遇した場合!」

 「この場所でできることとは…。」

「熊を撃退するスプレーを使うときに…。」

 

などを想定した準備をしました。

教頭の説明を聞き、

「おおおお!」

「なるほど…。」

「もし、〇〇なら…?」

 

 職員も真剣でした。

 

熊が出没する理由と、渚滑地域の課題がどうやらリンクしているようです。

ごみです。

何者かが、ごみを捨てていく道があります。明らかに「不法投棄」です。

 

地域の駐在所の方と、現場を観に行きました。

たばこの吸い殻や生活用品が捨ててあります。

「この道に、熊が出るんですよ…。」

そう話す駐在所の方。

 

これらの課題に、地域や学校はどのように取り組むことができるか?

 

 まず、明日(5月8日)、本校体育館で9時15分~10時に、熊訓練を実施します。

天候が悪いようで、外での実施から屋内に変更しましたが、訓練の内容に変更はありません。

どなたでも参加可能ですので、ぜひ、覗きに来てください。

 熊について、みんなで考えましょう!

学級通信というメッセージ便

 毎週末、学級担任から発行される、「学級通信」。

これは、発行することがマストではないのですが、担任の大切な業務になっています。

 

 この学級通信を手にした子供たち、そして保護者の皆さんはどのような心境で目を通しているでしょう…。

 

 昨日、全校朝会があり、その中で「校長からのお話」というコーナーがありました。

そこで私は、「反応(レスポンス)」の話をしました。

 

 先に結論を言うと、「どんなことでも反応が必要であり、自分にできる反応をしてほしい。」

ということでした。

 話を聞いてうなずいたり、手をたたいたり、「なるほど!」「どうして?」などのつぶやきをすることが重要だということです。

 

 今日、校長の机に「学級通信」が配布されていました。

高学年の学級通信には、以下のような記事が掲載されています。

 

 全校朝会で、校長から、「優しいの反対は何だろう。」という話があり、「話をしているのに目が合わなかったり、反応がなかったりすると嫌な気持になるよね。逆に…。(中略)

 この言葉について、学級でも話をしました。

 担任から、『特別なことをするのではなく、自分に置き換えてみたり、相手の立場になって考えたりしながらやるべきことをやることが大切。』と話しました。

 と書かれていました。

 手前みそになりますが、このように、全校児童に話した校長の話を、学級で振り返らせ、担任の味(指導)に生かしていくことがとても大切で、子供たちにどんな思いで、何を伝えたのかを通信に書くことで、メッセージ性が強くなると思います。

 親として、自分の子の担任が、日々どんなメッセージを届けているのか、興味、関心のない保護者はいません。

 

 他の学級通信にも目を通してみますと…、

 「言葉というツールを使って、有意義に効果的にコミュニケーションをとろう。」

という目的で進めている学習活動について紹介がありました。

 その中で担任は、

「たくさんの言葉に触れる機会を増やしていきたい。」

と結んでいます。

 

 学級通信には、担任からのメッセージが必要です。

それが、正解か間違いかではなく、学校として、担任として、一人の人間として、読む人の皆様にメッセージを届けることができたらいいな。と思っています。

 

 担任は、そのメッセージに対する、皆さんの反応を楽しみにしています。

「先生、あの記事読みましたよ。家でも話し合ってみたんだけどね…。」

「先生、あの記事について、賛成するよ。」

「先生、私の考えはね…。」

というものです。

 通信を介して学校と保護者の皆様がつながるといいなと思うのです。

 

 もし、この他にご批判、ご意見ありましたら、校長の私もうけたまわりますので、いつでもどうぞ。

 

 では、GW後半。有意義な休日を…。

 

元気な子供たちと先生

 GW真っ只中ですが、中3日間は学校です。

今日、畑つくり(畑起こし)をしました。

 「いただきます。」

の意味を子供たちは知っているでしょうか?

(命を)「いただきます。」は、誰でも知っているでしょうが、「この命を育ててくれた、苦労や恵」に感謝する思いを、「いただきます。」に込めるのです。

 

 子供たちは、その命を育てる「土」を作ったということです。

 こうした子供たちの活動を先に支えてくれたPTA、地域の方です。

 この後、子供たちは「命の種」を植え、命を育み、その命をいただくことになります。

植えっぱなしにならないように、どういう仕込みができるか、教師の腕の見せ所でもあります。

 

 私も以前、お米農家の方に協力をいただいて、「機械化」の学習をしたことがありました。

先に、子ども達が手作業で稲を植えます。

手で稲を植える作業は大変で、すぐに子供たちも「ね」を挙げていました。

「もう、いやだよ…。」

その言葉を聞いた時、

「お願いしま~す!!」

と叫ぶと、地域のお父さんが田植え機に乗って登場するのです。

子供たちは何事かとびっくり。

 

 その様子を横目に、田植え機があっという間に、等間隔で稲を植えていきます。

そこで、一言。

「機械化によって、米農家にはどんな変化があると思う?」

 

 ここで、子供たちの好奇心に火をつけるのです。

学習の全てに、意図的に意味付けをすることで、学習の深まりは変わります。

 

 話は逸れましたが、渚滑小の先生たちも、学んでいます。

 救急救命の研修です。

AEDの使い方、心臓マッサージについて確認します。

 いざという時の対処法は、毎年確認する大事な研修です。

昨年は、福岡県の1年生が誤飲により窒息死してしまう事故がありました。

その誤飲対応についても確認しました。

 

 大人も子どもも「想定・準備・確認」は、大切なのです。

 

 さらに話は変わります。

 毎日、職員室と校長室に挨拶をする子がいます。

「おはようございます。」

「さようなら!」

 継続は力なり。

 継続は人なり。

 

   素敵な気持ちになることができます。

遊ぶということ

 今日、中休みに体育館をのぞいてみました。

子ども達の歓喜の声が聞こえます。

遊び方は様々。

長縄を跳んでいたり、バドミントンをしたり、ボール遊びをしたり…。

 その中に、先生の姿もありました。

 とても素敵な空間でした。

 

 こうした遊びの時間に、子どもの「素」の姿が見えるものです。

いつもは走り回っているのに、元気がなかったり、ルール上のトラブルで喧嘩になったり…。

こうして、子どもの様子を把握する場でもあります。

 

 そんな場面で、大人はどうかかわるべきか…。

「解決策を教えない」ことに尽きると思います。

 

 せっかくトラブルになったのに、その解決策を大人が提示して、子どもは何を学ぶのでしょう?

 そんな状態が続くことで、「トラブルは誰かが解決してくれる」という間違った学びをしてしまうのです。

 つまり、大人がいないと遊べない子を育ててしまうと言っても過言ではないのです。

 

 しいて出番があるとすれば、

「どうしてあなたは、そうしたかったの?」

「〇〇さんの立場なら、どうする?」

といった、解決のための整理をしてあげることかもしれません。

 

 遊びのルールは変わっていいのです。変え方を学べばいいのです。

 何とか自分たちで解決できたという誇らしさを感じ、そしてトラブルを乗り越えた後に、みんなで笑えたという安心感を味わえるよう、私たちは支えていきたいものです。

 

 

学ぼうとするときの姿

 今日の子ども達の様子を観ていると、思わず楽しくなってきました。

 2年生の算数の時間で、24+15の計算の仕方を説明していました。

ここでのねらいは、24を20と4に、15を10と5に分け、10のまとまり、1のまとまりで考えることです。ひっ算の位取りにつながる学習です。

「…ということです。質問はありますか?」

という子の問いに、私は思わず、

「どうして、10と5に分けるの? 8と7でも、12と3でもいいじゃない?」

と揺さぶりました。

 

少し考えた子は、

「だって、10のまとまりと1のまとまりに分けて足した方が分かりやすいから。」

『じゃぁ、15じゃなく、28だったらどうするの?』

と続け様に尋ねると、他の子が、

「20と8に分けるんじゃない?」

と口を挟みます。

 

 そうです。この状態が大切です。

1人が分かればいいのではなく、ほかの子もみんなが理解するように、仕向けるのです。

 

 

 この学級では、〇m×△m×□mの立方体の体積を求める学習をしていました。

 

ただ公式を使って計算するのではなく、1㎥の実物大を用意して、

「この大きさが何個分だろうね…。」

と考えさせていました。

 

 子が学ぼうとする時とは、「やってみたい」「できそうだ」「どうしてだろう」という学びの必要感を味わった時です。

 ですから、そう思わせるように指導者は意図的に仕向けるのです。

そんな授業を1年間(6年間)続けることが、「学び続ける」ことにつながるのでしょう。

 学ぶことが習慣付けることができれば、「学ぶことの価値」を感じ、興味があろうがなかろうが、目の前の課題を解決しようとするのです。

 

 どきどき、わくわくしながら学校で学ぶ子ども達、職員であってほしいです。

 

当たり前を続けることは難しいけど…。

 「躾」(しつけ)について、考えることがあります。

 

「躾」と「習慣」は表裏一体の関係にあると思います。

皆さんは、歯を磨くとか顔を洗うという行動が、「習慣」になっているはずです。

休みの日だからといって、歯を磨かずにいるとなんだか気持ち悪い感じがしませんか?

 だから、自然と歯を磨いたり、顔を洗うことをしているはずです。これが「習慣」です。

 

 こうした習慣を身に付けるために、親は口うるさく言うはずです。

「歯を磨きなさい。」

「顔を洗いなさい。」

しつけとして、その動作の意味を何度も何度も諭すのです。

 

「靴を揃える」

という動作を見てみましょう。

 

 脱いだ靴を揃えるという動作は、実は面倒な動作が1つ入ります。

「かがむ」

ということ。

 この動作がなければ、家に入ることがもっと早くできるはず。

子どもは、何も言わなければ靴を脱ぎ散らかします。面倒だからです。

 でも、家から出るときに、靴を揃えていた方がそのまますっと靴を履くことができるし、そのことを意味付けて意義を理解できれば、自然と靴を揃えます。

 

 つまり、その習慣が身に付けば、良いこともあるし、やっぱり見ていて気持ちがいいものです。

 でも、続けることは、案外難しいことで、習慣付けるためには何度も何度も繰り返すことが大事ということが分かります。

 

私は、集会の時にまず観察する視点があります。

 

「靴」です。

整列している子ども達の靴を見て、紐を縛っているか、かかとを踏んでいないかを観ます。

 

 こういうところに、習慣が表れ、その時の気持ちが見えることも多いからです。

 

登校したあとの玄関にも目を向けます。

 下駄箱の靴が揃っているかです。

 

 色々な学校へ行く機会があるので、私はついでに下駄箱の様子を観察します。

踵を踏んでいる子が多いなぁ…。

靴がそろっていないなぁ…。

 と感じる学校の授業を参観したとき、授業が立派でも、どうも腑に落ちない感じがするものです。

 

 人によって当たり前と思うことは違えど、不変の教育はあります。

胸を張って、「当たり前を指導しています。」

と言える学校でありたいし、そういう大人でいたいと思います。

 

先生の声掛け

 ふと考えることがあります。

一日が終わり、その日の出来事を思い出したとき、その中で記憶に残っている言葉ってなんだろう…と。

 

 先生に褒められたとか、叱られたとか、

友達にうれしい言葉を掛けられたとか…。

 学校の先生の言葉って子供のやる気を促すこともできるし、よかれと思って掛けた言葉が逆効果になることもあります。

 

  

 本日、全校体育があり、縄跳び検定をしました。黙々と取り組む子供たちです。

先生たちも子供たちに声を掛けています。

 たっぷり縄跳びに取り組んだ最後に、担当の先生が次のように話しました。

「みんなが頑張っている姿はもちろんよかったのですが、

 〇〇さんの姿がよかったです。お友達の頑張っている様子をみて、『がんばれ!』って声を掛けていたからです。」

 すぐにできなくても、自分のできることを表現するのは、これからの体育では必要な視点です。そこを価値付ける言葉で、認められた子は自分の行動を肯定することができますし、他の子供たちも「次はそうしよう!」と目指すすがたが明確にもなるのです。

 

 その後、縄跳びの「目標」を設定している高学年の教室を覗いてみました。

 担任が面白い声掛けをしていました。

「もし、高学年の君たちが、汗をいっぱいかいて縄跳びをしていたら、下級生たちは何を思うだろう…。」

 

一瞬、教室がシーンと静まりました。

この瞬間は、子供たちが思考している(真剣に考えている)表れです。

「…きっと、その姿を見たら、自分たちも負けないで頑張ろうと思うとおもう。」

「真似すると思う。」

 

自分のことはもとより、高学年とは学校のめざす姿であることを理解し、多面的に思考させる「声掛け(問い掛け)」でした。

 

 ひらがなを練習してる一年生教室を覗いてみました。

いい字を書いています。

 その時、担任が、「鉛筆の持ち方、上手ですね。」

と声を掛けました。

「きれいに書きなさい。」

と指示しても、何をもってきれいな文字なのか分かりません。

それよりも、「鉛筆の持ち方」を徹底して褒めることで、筆圧が安定し、整った文字を書くことにつながります。

 

 このように、大人の言葉は、とっても大切です。

でも、先生だって(親だって)時には、結果的に間違った声を掛けてしまうこともあるでしょう。

そんな時は、

「ごめんね。こうなってほしかったんだ。」

と謝罪して意味を説明するしかないのです。

 

 みんなが同じ声を掛けるのではなく、自分ならこう言う! 自分にしかできない声掛けとは? を考えて実行できるほうが、楽しい世の中になると思うのは、私だけでしょうか?

価値付ける大切さ

 本日、全校参観日でした。

学校あるあるの1つですが、始業式から全校参観日までの期間、担任の気持ちは何とも落ち着かないものです。

 学級組織(係活動)や学級の約束を決めたり、担任の思いを話す「黄金の三日間」を経て、今日の保護者との対面が、4月の大切な出来事なのです。

 

 私は、全体懇談会で、

「年間1,000時間の学習時間を、子供たちが自分の学びとして『必要感』を感じ、仲間たちと交流しながら学びの質を高めていく。」

その前提として、家庭の役割「挨拶・返事・早寝、早起き、朝ごはん」を再確認してほしいことを述べました。

 

 1週間、各学級の授業の導入を観察していました。

 ある学級では、1年生のお世話をする高学年の役割について、話し合い活動をしていました。

 担任が一方的に活動を紹介するのではなく、1年生の立場になった時、どんな活動がうれしいか、何が必要かを想起させ、そのために何ができるか?を考えていました。

 国語の授業で、本単元を通してどんな言葉の力を身に付けるのかを、「学びの山」を使って考えていました。

 この学習が終わったとき、自分はどんな姿になっているのか見通しを立てるのです。

 体育では、体育館に設置された器具を前に、「どんな運動をするんだろうね。」

と問い掛け、器具と運動をイメージさせる導入をしていました。

 

 このように、教師と子供たち、子供たち同士が相互に交流しながら学習を作っていく形をとることを説明しました。

 

 その後、場を渚滑中学校に移動し、「合同PTA総会」を行いました。

最後に、私が挨拶を述べることになっていました。

 その中で、

 玄関にきた私に、中学校の先生がこう言ってくれました。

『学校のブログ、楽しみに見ています。生徒たちも見ていますよ。』と。

 

 うれしく、心がほっこりした瞬間でした。

 

 どんな立場になっても、自分の行動や言葉に反応してくれるのはうれしいものです。

こうした、「価値付け」をする大切さを、改めて実感しました。

 

 本日、来校くださった方々、総会に参加してくださった保護者の皆様、お疲れ様でした。